2010年12月アーカイブ

医師は時々、救われた生命(いのち)と失われた生命のどちらからより多くのことを学ぶことができるのだろうかと自問します。生命の喪失について、多くの人は肉親、祖父母や両親の死を通じてそれを乗り越えるための術を学ぶのだと思いますが、親に先立って死に直面するような様な病や事故、戦争に立ち向かわねばならなくなった人は、そういった学びの機会をもてないままにいきなり自己の死と向き合うことを強いられるわけで、その煩悶を乗り越えることは並大抵のものではないと思います。そこには、言葉には出さないものの'どうして自分が・・'というような順序通りにいかないことへの理不尽さに対する深い悲しみが内包されているように感じます。そういう時に、この順序は、いったい神があらかじめ与えたもうたものなのか、そしてこの順序を入れ替えることは許されないものなのかと問いかけてしまうことは、人の心の自然な摂理だと思います。それを宗教心と呼んでいいものかどうかわかりませんが、少なくともこの地球に生きている生命は、古細菌から脊椎動物にいたるまですべて太古の昔より連綿とつなっがていて、これからもつながっていく、つなげていかねばならないと感じます。 ノムさん

Papa Hobo-29

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今年も押し迫ってきました。NHKでは龍馬を主人公にした大河ドラマも終わり、時代は進んで明治時代、日露戦争を題材としたドラマが昨年に引き続き今年も始まっています。近頃のNHKはどうもこのあたりの空気がお好きなようです。そのドラマの主人公の一人、正岡子規が日本野球の殿堂入りしたのは2002年のことです。彼は、日本に野球が伝えられて間もないころからのベースボール・フリークでした。本名の升(のぼる)にかけて雅号を野球(ノボール)としていたのは有名で、いくつかの野球にまつわる歌も詠んでいます。「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの野球用語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」という日本語に訳したのも彼です。新聞社(新聞日本)に勤めていた彼がもし今の時代に生きていたら、どれほどすばらしい野球評論を新聞紙上で展開してくれたでしょうね。 それはさておき、先日のAndyのクリケットに関するtalkは非常に興味深いものでした。競技そのものが野球と似ていることもあり(野球のもととなった?)、どうしても我々はそれと比較して論じがちですが、まったく異なる魅力を持った競技であることがよくわかりました。オーストラリアやニュージーランドを訪れた際に、テレビで放映されていたクリケット中継で熱狂する観客を尻目に何の興味も見いだせなかったのが、これからは少し変わりそうです。 どんなことでも食わず嫌いは損をするように感じました。 呑むさん 

専門医試験

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あと一ヶ月足らずで日本整形外科学会の専門医試験があります。

僕は去年は忙しいという理由でパスしたので、今年受験することになりました。

 

この試験勉強がなかなか手強いです。特に内分泌の分野はあまり日頃接することが少ないので知識がなく、ほぼゼロからの勉強になって時間がかかってしまいます。

教科書見ながら憶えて、その時分かったような感じになるのですが、数日経つと、「あれ?」みたいな感じになってしまいます。

それでも諦めず憶えますが、数日経つと「あー、これどっちやったかなあ。」とまだ微妙な感じ。

でも僕は人一倍諦めが悪いので、語呂などを駆使して力ずくでおぼえますが、原発性、続発性、特発性、偽性...?偽性偽性......???...「こらこら。もう勘弁して。」というのが現状です。

 

これって年齢から来るものなのか?と思いながらも、結局『継続は力なり』でやるしかないです。

今年受けるみんなが無事受かりますように。

試験終わって向こうで楽しい打ち上げできますように。

 

大学院 S

ノムさんHobo-28

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Baseballと仏教のつながりは?と問われて、野球をよく知っている方はすぐに108という数字を思い浮かべるかと思います。仏教においてはその数字は人の煩悩の数、除夜の鐘の数であり、野球においてはボールのsitch(縫い目)の数であります。これはもちろんまったくの偶然で何のつながりもないのですが、たしかに大ヤマを張って豪快な空振りをした打者のスイングや吸い込まれるようにど真ん中に投げてしまった投手の一球には人間の煩悩を垣間見ることができるような気もします。

院生のころ、タイはバンコクの学会に参加した際に有名な涅槃仏を有する寺院を観光で訪れた時のことです。その寺院の参拝は、入口でたしかコインのようなものだったと思いますが、それが108つ入ったお椀をもらって涅槃仏の周りを参りながら周囲においてあるお椀に一つずつそのコインを入れていけば最後にそれがすべてなくなって煩悩が払拭されるというものでした。もちろんお椀の数も108つ置かれていてぴったり一致してなくなるはずなのですが、自分はどういうわけか最後に一つコインを残してしまいました。どこかで入れ忘れただけなのかもしれませんが、同行の先生方には「普通の人より煩悩が一つ多いのですね」とにやりとされてしまいました。その普通の人より一つ多い煩悩がなんなのかは未だにわかりません・・。

ちなみに・・・

患者さんから'先生何針ぐらい縫ったのですか?'と聞かれることがしばしばありますが、その時は108つと答えることにしています・・・。(もちろん状況が許される時だけですが) ノムさん